札幌市 石狩市 合気道道場

北海道春風館

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草枕日記 第四話

 さて、アフリカの旅の話の前にここで当時のスイスでの生活について少し書いてみよう。仕事も見つかったので、洋子さんのアパートを出て最初に借りたのは、スイス人のお婆さんが一人で住んでいる一軒家の一室。当時はドイツ語(正確にはSchwitzer  Deutsch)もほとんどわからず、私の部屋にどうしてベッドが二つあるのか尋ねることも出来ずに、とにかく荷物を運んだのだが、その夜遅くに一人の男が突然部屋に入ってきた。彼はイタリア人でどうやらこの部屋の同居人らしい。彼は英語はほとんど駄目なので、ローマで覚えた片言のイタリア語とこちらも片言のドイツ語と万国共通のゼスチャーを交えての奇妙な生活が始まった。とは言っても私は朝早く出て行くし、彼は夜遅く帰ってくるので、ほとんど会話らしい会話はしなかったのだが。


 ほとほと迷惑したのは、時折私が寝ていると彼女を連れて帰り、隣のベッドで二人で何を始めてしまうこと。彼も私と同じ貧乏な出稼ぎ外人、文句も言えず狸寝入りをするしかなく寝不足のまま仕事に出かけたことも何度かあった。
 そんなこともあり、その部屋は一ヶ月でおさらばしフライパン工場のあるエッティンゲンという村の農家に下宿することになる。ここは仕事場も近いし、三食付きで家族も皆親切なので居心地はよっかった。特にここの奥さんの毎朝かまどで焼くパンは絶品、未だにあれ以上のパンには出会ったことがない。またある朝飼育している「うさぎ」が一匹だけ部屋の中に放されている、どうしたのかなと思っていたが、夕飯にその「うさぎ料理」が出てきて納得。彼女等はペットではなく家畜として飼われていたのです。それでもやはり愛着が湧くのでしょう。その日に食膳に上がる一匹だけを、朝から放しておくようです。その料理の味も忘れることの出来ない味のひとつです。


 この下宿生活も三ヶ月ほどたち、今度は前述の奥田君の世話で彼自身も住む大きな屋敷の一室を借りることになる。そこはハインツというドイツ人の劇作家が借りている家で、この家にはハインツと演劇を勉強するスイス人の若者が三人、そして奥田君と私がそれぞれ一部屋づつ借りて住んでいた。ただし、いつも得たいの知れない人間が絶えず出入りしていたので、実際に何人が常時住んでいたのか定かではないが。
 前述の川瀬くんもその一人で、一時は私と一緒にフライパン工場で働いていたのだが、どうにも性に合わなかったらしく、一週間ほどで止めて当時流行りつつあった「ハリガネ士」の仕事をしていた。

 「ハリガネ士」とは銀メッキの針金で指輪やネックレス、ブレスレット等を自ら作り路上で販売をし生活の糧を得ていた職業をいい、当時スイスにいた日本人の誰かが始めた。(と聞いている)比較的手の器用な日本人にとっては、簡単な手ほどきを受ければ誰でも始められるので、アルバイトも簡単に見つからない当時の日本人の間で広まりつつあった。前述の奥田君も後にこの仕事を始めたし、かくいうこの私もアフリカの旅の後、再びここスイスに戻った時は迷わずこの仕事を選んだ。










スイスのチューリッヒの駅の地下道で

 さて話を戻そう。フライパン工場での仕事を終えて夕方部屋に帰る。部屋に居るときはアフリカの旅の情報集めや音楽を聴いたりで時を過ごし、あとは近くの飲み屋で友人達と一杯やる。というのが日常だったのだが、この「飲み屋」がくせもので、店内ではマリファナからハッシッシ、LSDにヘロインまで売りに来る。便所に行けばスプーン片手に注射器をもったやつがうろうろしているし、「ハイ」はもちろん「ストーン」になった連中もあちこちにいる。
 私の部屋の隣に住む男は、部屋の証明はすべて太い蝋燭で、いつもラリっていて、「LSDを200回もやったことがある」と豪語していた。こちらはいつ火事を起こすか心配でしょうがなかった。好奇心が人一倍旺盛なこの私なので一通り体験だけはさせてもらった。    ただ日本人と違ってスイス人だけでなく、ヨーロッパ人全体に言えることは、酒や薬に酔って大声を出したり、暴れたりする者はあまりおらず、比較的自制心の発達した民族のようだ。(もちろん例外はどこにでもいるが) 
その飲み屋には当然警察関係者も出入りしているのだが、彼等は「売人」または「元締め」の逮捕が目的で、雑魚には見向きもしていない様子だった。
 確か18歳から55歳まで兵役の義務のあるスイス人男性であるが、当時ベトナム反戦が旗印のヒッピーの影響もあってか兵役を拒否する若者が数多く、社会問題にもなっていた。(麻薬もベトナムで味を覚えた、または中毒になった兵隊が本国に持ち帰ってから広まった、という説もある)前述の洋子さんのご亭主のコンスタンツもその一人で、日本からスイスに戻るとすぐに逮捕され、しばらく務所暮らしをしていたようだ。

 とにかく、ここスイスでの半年間の生活で色々な人間と出会い、色々貴重な体験をさせてもらい、今思うと本当に「若気の至り」と反省することも数え切れないほどある。まだまだ後学の為に聞いてもらいたい話は尽きないが、それは後日機会があればとし、旅の話に戻りたい。
 さて1973年1月10日、バーゼル発17時50分、スペインのバルセロナ行きの国際列車(ヒッチハイクではないのだ)で、私はついにアフリカに向けて旅だったのである。

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