札幌市 石狩市 合気道道場

北海道春風館

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草枕日記 第五話

[あらすじ] 1972年4月18日、ストックホルムまでの片道切符と所持金11万円を携え、横浜港から船に乗った私だが、ロシアを経由しスエーデンのストックホルムでのバイトも一ヶ月で首になり、ヒッチハイクでヨーロッパ大陸を南下してイタリアのローマにたどり着いた時は、ほとんど所持金も底を尽きかけていた。一ヶ月におよぶ「ローマの休日」の末、職を求めてスイスのバーゼルという町へ流れ、そこに住む日本人のおかげで幸いにも郊外のフライパン工場で働くことになる。その町での半年間の生活で私の次の旅の目的地は「アフリカ」と決め、夢はどんどん大きくなるばかりであった。

 1973年1月10日、6ヶ月に及ぶスイスでの滞在を終え、私はアフリカにむけて一人旅だった。スペインのバルセロナのユースホステルで一泊し、翌朝友人の住む「グラナダ」行きのバスに乗り込む。そのバスの中で一騒動がある。
 このバスはどうも運賃が安いせいか乗客はあまり品がよろしくなく、走行中にゲロを吐くやつはいるし、私のすぐ後ろの席のオヤジはモク中でアル中らしく、ウィスキーの匂い
がたまらなく私もかなり気分が悪くなっていた。
 事件はその夜に起きた。何時ごろかふと目を覚ますと、そのオヤジが私の新品のカバンの横腹をナイフで切り裂き、中の荷物を取り出して、当時私が愛用していたネックレスを首にかけ、私の帽子をかぶり、懐中電灯を照らし一人にやにや笑っているではないか。「この野郎 なにするんだ!」とあわてて彼からナイフを奪い、荷物を取り返した。何も反抗してこないので「こいつはきちがいか」と座席に戻ると、なんと!そのオヤジはどこからかライフル銃を持ってきて弾を詰め出した。
 私も観念したが、どうやら私が手を出すまで撃つ気はないようだ。そのうち誰かが彼から銃を取り上げたので一安心する。この騒動のせいで翌朝目が覚めるとバスはとっくに「グラナダ」を通りすぎてしまい、列車で戻るはめになってしまった。

 ここ「グラナダ」に住む私の友人「粟飯原茂幸」君は日本から私と一緒に旅にでて、ドイツで別れた人で、どいう訳かスペインに流れ着き、当時この町でスペイン語の勉強をしていた。「あさみどり、澄み渡りたる大空の、広きをおのが心ともがな」この空気のおいしく、物価の安い町で友人達の好意にも甘え12日間も滞在してしまう。
 さて1月26日、アフリカ大陸が眼前にせまる「Algecirasu」(アルヘシラス)という港町に一泊し、翌日対岸のスペイン領の自由貿易港「Ceuta」(セウタ)に向け船は汽笛をあげる。1時間半ほどで、ついに待望のアフリカ大陸上陸を果たす。この町はまだスペイン領だが、アラブ人の血が交じっているのか、女性達はエキゾチックな美人が多い。
 ここで「Resochin」というマラリアの予防薬を買う(この薬は1週間に2回、1回2錠服用、効用は20日後からとのこと)翌28日、モロッコの町「Tetuann」に到着、そこで知り合った17,8歳位の少年が親切にも両替、買い物、安いペンション、安くてボリュームのあるレストランまで案内してくれ、おまけに「ハッシッシ」まで吸わしてくれる。
 彼のことは決して忘れないだろう、特にあの別れ際に哀願するように「Give me money」と言った時の声とは裏腹なふてぶてしい顔は。この手の親切はこの行く先々で受けることになる。
 しかし、あの若さで自国語以外に英語、独語、仏語と話すのには驚いた(すべて独学したのだと思うが)あれは立派な〈観光ガイド〉という仕事と呼べるだろう。私にもっと余裕があれば、始めから割り切ってどんどん彼を利用し、そして彼の満足するだけの額を与えてあげることが出来たのだが。

 翌朝9時、アフリカで初めてのヒッチハイクを始める。郊外の交差点で待つこと2時間半、結局一台も捕まらずバスで行くことにする。アフリカでのヒッチハイクは万事この調子である。たまに乗せてくれる親切な運転手もいるが、降りる時にお金を請求されることが多い。まあ「足の向くまま、気の向くまま」の一人旅、何もあせることはない。
 モロッコの首都「Rabat」での日本大使館に掲げられていた日本国旗に感動し、“Shit”で初の“Stone”を体験し、あの映画で有名な町「Casabranca」のカスバで道に迷い。
ヘルマン・ヘッセの「知と愛」を読みふけり、コレラと黄熱病の予防接種を受け、三日後に幻想の町「Marrakech」へ20kmの歩きとヒッチでたどり着く。
「我、旅人にあらず、放浪者なり」
「放浪者の三つの大きな要求、すなわち生命の危険に対する保証と、夜の宿を見つけることと、食物を調達することを、すべてに結びつけること」

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