札幌市 石狩市 合気道道場

北海道春風館

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草枕日記 第二話

 よくよく見ると、ベッドのシーツにはシミがついているし、椅子のカバーも破れているし、至る所に破損個所があり,ひどい状態だ。お風呂のお湯もあまり出ない。これが当時のソ連の現状なのかと思う。それでも普段貧しい食生活をしていた我々には,食事だけでも十分楽しめたのが幸いであった。

 モスクワでの二日間もあっというまに過ぎ、4月24日には北欧のスゥエーデンの首都ストックホルムに我々は着いていた。船の中の情報で「町の中心街のとある喫茶店に、ここに長く住む日本人がたむろする」と聞いていたのでさっそくその店へ行き、髪の長い不潔そうな日本人達から、この町での仕事の情報などを教えてもらう。(1968年に日本も外貨の持ち出しが自由になり、日本人も海外に自由に出かけるようになった。それ以降日本の若者がヨーロッパ、特に当時は北欧で働きながら暮らしていた。こんな情報も出発前に学校の先輩から聞いていた。)

 その結果、この町は仕事が出来そうだと判断して我々3人は(船で知り合った一人の日本人も含めて)すぐアパートを借りて一緒に住み始めた。(全く現在日本で大勢見られる出稼ぎ外人労働者と同じである)運良く町はずれにある遊園地の中のレストランで“皿引”の仕事(セルフサービスの店なので、客が食べた皿を下げるだけの仕事)と皿洗いの仕事が見つかり、ここでしばらく旅の資金稼ぎをすることにする。週末の夜は日本人が出没するという「ディスコ」に行き、旅の情報を仕入れようとするが、彼らがほとんど金髪のかわいい女の子と一緒なので、あまり話も出来なかったように思う。
 三ヵ月位は働いて十分な資金を貯めてから旅に出ようと計画していたのだが、一ヶ月働いた所で学生証(インターナショナル ステューデント カード)が無いということで首になってしまう。当時のヨーロッパでは、このカードが有ると無いとでは、何をするにも天と地ほどの差が出てくる。学生証があればまだ何とか仕事が見つかったし、乗り物の料金もかなり安いし、とにかく特権がかなり多かったように思われる。
 そこで我々旅人は「偽の学生証」を作るわけだが、見つかれば当然「公文書偽造罪」で逮捕され、“国外追放”又は“強制送還”となる。(現にされた日本人も何人かいた)…
しかし彼らは余程運が悪かったのか、もしくは頭が悪かったと思われる。というのも私が後日一番最初にスイスで作った学生証は(もうとっくに時効だから書いても罪にはならないと思うが)本物をタイプライターでコピーし、学校の名前は“バカボン大学”で学長の名前は私が手書きで“フジオ アカツカ”と英語で書き、薩摩芋を彫ったいわゆる「芋版」で押印したものであった。当時はこれでも立派に通用したのです。 しかし「諸君よ、夢夢真似することなかれ!」 













これは2度目の学生証です。

 ストックホルムの町はゴミもほとんど落ちてなく、本当にきれいな町であり、人々は外人にも親切で住みやすそうであったが、どうも私の性に合わず後に旅したアフリカや東南アジアのごみごみした町並みの方が、何故か人間臭くて好きであった。

 

  5月29日、南を目指してヒッチハイクの旅が始まる.デンマーク、ドイツ、オーストリアを通り、イタリアのローマまでの約一ヶ月間の“あても果てしも無い 旅”で、体も疲れ、資金も底を尽き始めてきたので、物価の安いこの地で一ヶ月に渡る「ローマの休日」を過ごすことになる。今でも鮮明に思い出すことのでき る、この町での暮らし。
オードリーヘップバーンのようなかわいこちゃんには出会わなかったが、十分楽しませてもらった。この町でのある日本人との出会いが次の私の運命を左右することになるとは、夢知らず…

 ここで当時の時代風景を振り返ってみよう。アメリカがベトナム戦争に全面的に軍事介入した1963年以降、兵役義務を拒否してヨーロッパに逃げてきたア メリカの若者達が、軍隊の制服、坊主頭に対抗して自由な服装(一般の人に言わせれば“汚い”)と長髪で旅していた。これが他の国の若者にも大流行し世界中 に広がってゆき、既成の社会体制や価値観を否定し、脱社会的行動(ドロップアウト)をとった。当時彼らを人々は『ヒッピー』と呼んだ。そして私も感化を受 けた若者の一人であった。


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