札幌市 石狩市 合気道道場

北海道春風館

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草枕日記 第三話

 イタリアの首都、ローマでの生活で持金も底を尽き始めてきたので、新聞に「仕事求む 当方日本人学生」の広告を載せた。すると二件の返事をもらう。一件は農業の仕事で月給30000円。もう一件が金持ちの医者の邸宅の「庭師」(雑用係り)の仕事で月給45000円。当然給料の高い方の仕事につこうと面接に行く。何が気に入ったのかわからないが就職が決まる。ただ「身元引受人」が一人いると言う。イタリアに知人がいるわけがないし、こんなヒッピーの身元引受人になってくれる奇特な人はどこにもいない。最後の頼りは、最後の砦、日本人旅行者の味方「日本大使館」!電話で問い合わせてみたが「日本にかえりなさい」と冷たい一言。

 

 結局仕事につくことも出来きなくなり、相変わらずのスペイン階段での“五円玉売り”とトレビの泉での日本人観光客の見物等で時間をつぶす毎日を送っていたある日、宿泊場所のユースホステルでシャワーを浴びていると隣から声がかかり「おーい石鹸貸してくれ」との日本語。この声の持ち主、自称日本のチャ-リーチャップリン「川瀬文雄」との出会いが次の旅の目的地を決めさせることになる。
 彼の話によると、彼も私と同じように「ソ連経由」で来たそうで、ハバロフスクからは一週間の「シベリア鉄道」のコースをとってモスクワまで行ったそうだ。その列車の中でスイス人と結婚した日本人女性(洋子さん)と知り合いになり、「スイスに来たら訪ねていらっしゃい」とやさしい言葉をかけてもらった。これから、その洋子さんの住む町「バーゼル」に行くが君も来ないか、と言う。私は『その町に行っても仕事があるかどうかわからないし、ここローマが気に入っているので、もう少しここで仕事を探してみる。いよいよ困ったらスイスのボンの旅行者の味方「日本大使館」気付で手紙を出すよ』と返事をし彼とは別れる。しかしその後数日して、この町での仕事探しは不可能だと判断し、ボンの「日本大使館」気付で川瀬に手紙を出して、再びヒッチハイクでスイスを目指して出発する。

 

 ジェノバからミラノを通り国境を何とか通り抜けて、いよいよスイスに入国したのは7月の暑い日であった。何の当てもないので、とりあえずボンの「日本大使館」へ向かう。川瀬が手紙を取りに来なければ、彼の住所もわからず、何の連絡も取りようがないのだから、ローマで洋子さんの住所でも聞いておけばよかった。と反省をしながら大使館の玄関を入る。
 となんとそこに福福しい川瀬の顔がある。なんという偶然か、神の助けか。無神論者の私も神に感謝したくなった。とにかく彼と一緒にバーゼルの洋子さんの住むアパートに、またヒッチで行く.玄関のブザーを物知り顔で押す川瀬、当然洋子さんがにこやかに出迎えてくれるのかと思っていると、ドアーを開けてくれたのは小柄で美人の外国人女性(当地では我々の方が外人だが)「ハイ、フミオ」と笑顔で我々を招き入れてくれたのは良いが、彼女の姿はどう見てもブラジャーとパンツだけ、私は目のやり場に困りながらも、何とか自己紹介をして川瀬の部屋に案内される。
 とにかく、これで何とか雨露をしのぐ場所は確保できた。あとは仕事があるかどうかだ。洋子さんが帰ってきてから、スイスでの仕事の情報をいろいろ聞き出す。彼女の話では、『バーゼルから少し離れたエッティンゲンという村にある「フライパン工場」で最近まで働いていた「奥田」という日本人がいる、彼を紹介するから色々話を聞いたらどうか。』
 早速その「奥田実」君を紹介してもらい、彼に「フライパン工場」の社長に話をしてもらう。すると「OK 雇いましょう」との返事、全くこんなに早く仕事が見つかるとは思っても見なかった.「ようし、皆で就職祝いだ」と洋子さんのアパートの窓から真下に見えるフランス国境を歩いて渡りスーパーでワインを買い皆で乾杯をする。

 またある日はドイツ国境(ここも徒歩でいける)を渡りビールを飲んで帰って来たりと、この辺の国境は全く厳しくなかった。結局その「フライパン工場」でこの年の暮れまで働くことになり、次の旅の十分な?資金を稼ぐことができた。「人との出会いが運命を変える」とはよく言ったもので、川瀬文雄氏と奥田実氏とはこれ以後今日までの20年以上の深い付き合いとなる。
 翌1973年1月10日、私は念願の「アフリカの旅」に出発する。所持金30万円、荷物は車輪付きショッピングカートのカバン一個だけだった。


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