札幌市 石狩市 合気道道場

北海道春風館

石狩市花川北1条5丁目185
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草枕日記 第一話

 

 1971年、短い夏休みを終えて学校の事務所の前を通ると女子事務員に呼び止められる。「庄司さん、後期分の授業料がまだ未納です。至急全納して下さい」この一言で私は重大な決意をした。
 ラグビー、ラグビーに明け暮れた高校三年間を終え、夢の花園にもあと一歩で行けず放心状態のまま大学受験をするでもなく、就職するでもなく、友人に誘われるままに上京し、新聞奨学生として自活しながらの浪人生活。遊びまくった二年間の結末は神奈川の二宮町にある、とある観光専門学校。日中は授業を受け,夜は横浜まで出て結婚式場でのアルバイトに明け暮れた1年間はまだ良い。くだらない(失礼)授業に嫌気が差し,学校へはマージャンのメンツを探しに行くだけ、回ってきた出席表を書き友に頼むと、匍匐前身で雀友四人で退去。日中は麻雀、夜はバイトの生活、怠惰な魂の安静に浸るのもほどほど嫌になっていた頃だ。

 「よし、俺は旅に出るぞ!」と決意。当時私と同居していた徳島出身の友人も一緒に行くと言う。その日から二人は守銭奴となり、働いて働いて翌春の四月までに一人30万円ほどの貯金ができた。
 「横浜から船に乗ってソ連(当時 現ロシア)のナホトカまで二日間の旅、そこから鉄道で16時間かけてハバロフスクまで、そして飛行機でモスクワまで約10時間。モスクワの超豪華ホテルで二泊、その後スゥエーデンのストックホルムまでプロペラ機で飛ぶ。」というソ連の国営旅行社「インツーリスト」のチケットが138000円(三食つき、もちろん片道切符)その他パスポートの取得費用や細々とした買い物をし、残った所持金は11万円。これだけで1年間(初めは1年間の予定だった)生活できるのだろうか、帰りの切符はどうするのか、言葉は通じるのだろうか、などとは全く考えずに1972年4月18日、横浜港より旅立った。(両親には学校は無事卒業したと言ってある。いまだに)


 初めての船旅に心は踊り身も踊る、思ったほどの船酔いもせず、ボルシチなどのロシア料理もおいしく、夜は船内で生バンドの演奏付きのロシア音楽やロシアダンスに興じ、  快適な船旅は津軽海峡を抜け、4月20日ソ連のナホトカ港に着く。
 さびれた建物で入国手続きを済ませ、税関を通るとすぐ近くの鉄道の駅まで歩いて行く。あたりは殺風景な景色、銃を抱えた兵士が所々に立っている。駅までの途中子供たちがよって来て、しきりにペンをねだる(チュウインガムではありません)本当に物のない国なのです。
 とにかく我々を乗せたディーゼル機関車で引っ張る列車はまっすぐ北へ向かってひたすら走る。外を眺めてもツンドラ地帯の同じ景色が永遠と続くだけ。途中止まる駅では様々なロシア人が(一般人と思える)物を売りにくる。(ウォッカが多い)

 

 こうして列車は翌21日ハバロフスクに到着。ここからすぐに飛行場まで拉致され、あっという間にモスクワ行きの飛行機に乗せられてしまった。ナホトカの港もハバロフスクの飛行場もすべて撮影禁止で,カメラを構えると、どこからかすぐ銃をもった兵士が「ニエット」と止めにくる。
 さて飛行機はここから約3000キロ離れたモスクワまでシベリアの真上を飛ぶ。シベリア鉄道を使うと一週間の旅だ。さすがにロシアの飛行機も早い,約10時間後の翌22日到着。我々日本人御一行様(日本人だけではなく、ヒッピー風の白人も少しいた)は丁寧にモスクワ市内の超豪華ホテルにバスで案内される.(百年以上も前に建設されたと思われるゴシック調の建物)
 こんなホテルに宿泊したことのない我々は、おどおどしてルームボーイに部屋に案内される。すごい部屋だ!北海道綜武館の道場の五倍以上はある。天井の高さも7,8メートルはありそうだ。こんな所に泊るのかと思うと何故か落ち着かない。ところが……

 

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